びさいの教育

理念・目標 解説

【建学の精神】
昭和2年、浄土真宗の「本巌寺」が建てられ、それに併設する形で昭和4年に美哉幼稚園は西元龍拳師によって設立されました。旧教育目標の前文にあった言葉は、初代龍拳師の精神を歴代の園長がたが言葉にして受け継いできたものなので、それをこの度「建学の精神」として提示することにしました。激しく変わる時代の様相の中で初代が美哉幼稚園を設立した精神を受け継ごうとするためです。
「み仏」というのは、子どもたちが日々手を合わせている阿弥陀様のことです。阿弥陀仏とは限りない光・限りない命ということです。限りある私どもが限りないものと関わるというのが、人類が宗教と呼んできたいとなみです。
いつでもどこでも照らす光があり、心の中まででも届く光がある、死んでいく命のなかを死ぬことのない命が貫いている、このように「あみださまが抱っこしてくださっている」ことを「慈悲」と言います。そのように支えられてあることを知るのを「智恵」と言います。

【教育理念】
「聞思」というのは浄土真宗を開いた親鸞聖人の言葉です。これは聖人の宗教経験(=無限なものと一体になったあり方)を示したものです。聞くことにおいて、私たちのはからいの及ばない阿弥陀様が体に染み入ってきて内から包み込んで下さる、その至福の喜びと意味をよくよく考え、思いめぐらしながら生きていくということです。
なので、「阿弥陀仏」という文字はなくても、「聞く」といえばそこには阿弥陀様の智恵も慈悲も含まれています。
幼児教育は主体性を育むのが使命です。主体であるということは、自分で決めるという自己決定です。その前提に自分が自分を意識するという、自己関係があります。自分が自分を考える、自分が自分を振り返る、これが人間にのみ与えられた命の在り方であり、人間の尊厳はここに根づいています。要するに、主体性のもとは「考える」というところにあります。
「よく考え」には主体性や自己発揮を込めています。
でも自己発揮ばかりではわがままになりませんか? たしかに。
だから、「よく聞き」なのです。聞くとは、受容性。親、先生、友達などの言うことを受け入れる、風の音、苦手な虫、嫌いな食べ物、風土の恵みを受け容れる。最も根本的には阿弥陀様の声を受け容れる。
これらの「自分ではないもの」を受け入れれば受け入れるほど自分は豊かになっていくのです。
主体性は自分で決めることだと言いましたが、生まれるということは、自分では選べない「いつか」「どこか」に産み落とされることですから、受容せざるを得ません。受容性が主体性に先立つのです。だから、「聞」-「思」という順序なのです。
「よく聞く」=他者受容
「よく考える」=自己発揮
「よく遊ぶ」=上の両面が結びついて遊びが展開していく、それが美哉幼稚園の目指すうつわです。

【教育目標】
教育目標の根本は、「関係性」「コミュニケーション」
です。コミュニケーションとは、よく「キャッチボール」のたとえで語られるように、大事なのは一方通行でなく、相方向だということです。なので、びさいでは「めざす子ども像」は掲げません。子どもだけの目標ではなく、教職員の目標でもあるからです。よく聞かない教師のもとでよく聞く子どもが育つとは考えにくいでしょう。幼児教育は、教師が一方向的に生徒に教えるという教育スタイルとは違うので、コミュニケーション的教育スタイルを本質としています。
教育目標の語尾はみな「あう」にしていますが、ここに「コミュニケーション」「関係性」の重視を表しています。話す力と言えば個人の能力の問題ですが、個人の能力が高くても話し合う力があるとは限りません。「あう」とは関係すること、自分の思い通りにはならない他者と関係を結んでいくことで、自己中心性から離れていくのです。「あう」世界は個人を超えた世界です。また、わかち合うことは慈悲の精神でもあります。そして昨今、関わり合う力やコミュニケーション能力を育むことは時代の要請です。
関係性で物を見る見方が仏教的なものの見方です。たとえば、子どもに問題があるとき、それは子どもだけの問題ではありえず、父のかかえる問題の反映だろうし母のもつ問題の影響でもあるでしょう。
でも現代では「私は私、あなたはあなた」という考えが一般的です。何かあるとすぐ「オレはオレ、あんたには関係ない」と言い出すのがこの考え方です。仏教的なものの見方(「縁起・空」)はその真逆です。
そもそも「私」というものが「私ではないもの」の集合体です。私の体を成り立たせているものは、食べることによって入ってくる植物や動物、私の心をなしているものはこれまでに学んだ言葉や経験した他者との関わり、歴史によって築かれてきた精神的産物などです。私とは、関係性の束なのです。関係性(風土や世界)に織りなされたものが、存在する個々のものです。
なので、私があって関係があるのでなく、関係があって私があるのです。関係性を中心にものを見れるようになるほど自己中心性から離れていくようになり、自然と仏教的な生き方になってきます。

 目標の項目を簡単に見てみましょう。
(おもい)よろこび、悲しみ、さみしさ,悔しさいろんな「思い」があります。それを伝えることで、共感されたり共有されたりして、人はつながって行きます。
(ことば)思いは、表情などでも伝わりますが、やはり重要なのは「言葉」です。言葉とともに人類は始まりました。言葉によって考え、それどころか感じることさえ言葉に依っています。言葉が豊かになれば感性も豊かになります。言葉が豊かになるほど、世界の襞に触れることができるようになります。
(からだ)言葉が豊かになるためには、「体」が受け取ったものを言葉にすることが大切です。この数十年来いわれている子どもの体力不足に対応して体を鍛える必要性もありますが、集中して聞くということにも筋力が必要なのです。
(いきもの)体は心よりもより生き物という感じがします。体は自然と一体だからでしょう。「いきもの」は自然よりもたらされた、多様な命の形です。生きていることでは同じといっても、形も生き方も全くちがう。同じとは思えないのに、同じものが貫いているから不思議です。生き物を通して、人間のはからいの及ばない自然や生命の不可思議を感じます。
(ちがい)動物や植物と人間の違いは認めやすいですが、人間同士の違いを認めるのはたやすいことではありません。ひとは、自分の考えに同意してほしいし、自分の好きなものは人も好きであってほしいしので、それが高じて自分の好みをひとに押し付けることを平気でするものです。ひとは、ぬきがたい「自己中心的」な性質を持っています。
この自己中心性から離れるのが仏教の根本精神です。聞くというのは、自己中心から離れる一つの道です。違いを認めるというのはもう一つの道です。
違う=変わってる=わからない=おかしい、と考えずに、違う=よくわからない=知りたい=おもしろいと思えたらいいですね。違いを認め合えれば、多様になります。多様であるということが、豊かであるということです。
(うつくしいもの)花の色もかたちも実に多様です。虫たちも、謎めいた形をしています。晴れた空の色、雪が降る速度、葉っぱの色が変わっていくこと、世界は美しいもので満ちています。でも、それに響き合わなければ無いに等しいでしょう。
正誤、善悪は世の中の秩序にとっては大切なことですが、「美しさ」がなければでは、ひとは生きていけないように思います。美しさの中に不思議さがあり、美しさがひとを豊かにしてくれるからではないでしょうか。

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