卒園児とカタツムリ―いのちが軽々しく語られる時代に

 

 

もうすぐ卒園式だ。今年も立派に育ってくれた子どもたちを送り出すのは名残惜しくて仕方ない。その立派な彼らを思い出しながら、書きそびれてきたことを書き遺しておきたい。

かたつむりとのおつきあいがたけなわの今年度の夏のこと。年中組である事件が起こった。

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さくら組のベランダに、カタツムリの胴体部分が殻と引き離されて、あった。その無残な姿の回りに子どもたちが集まる。

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虫たちなどの生きものとのかかわりは興味本位で始まることが多い。カタツムリはナメクジと殻とのセットだ位に思って、ヤドカリ感覚で引き離したりつついたりしたのであろう。本人はもちろん悪気はなく、悪いことしたとも思っていないかもしれない。そこで、一体どうしたのか、これはどういうことなのか、担任が子どもたちと話し合いながら、生き死にについて体験的に考えを深める。

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カタツムリの殻はお家ではなくて、体の一部だから、髪の毛を引っ張られたり手をひっぱられたりするように痛い、ということを担任が話す。どうすればいい?と投げかける。

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そこへプールに入る準備のできた年長組さんの姿が見える。すみれ組のお兄さんお姉さんに聞いてみよう。

その無残な姿を見て「死んじゃったらもどらんよ」「もう生きれん」という声が漏れるが、責めるのではなく、いっしょに沈んでいるといった感じ。昨年、興味本位でつかまえたものの後のお世話ができなくて何匹も死なせてしまった経験を持つ彼らならではの接し方・受け止め方だったかもしれない。そこで今度は年長の担任もどうしたらいい?と投げかける。子どもたちが真剣に考えていることは、写真の表情からもうかがえるであろう。

担任は二人とも不用意に「いのちは大事だ」とお説教(子どもに考える余地を与えず大人の考えを押しつけること)したりせずに、ちゃんと考えてもらおうとしている。考えてもらうには、「考えなさい」と言うのではなく、問いかけることだ。大人だって生き死にの事実の前に立たされた時、明確な答えなんてもっていないのだから。

年中の子どもたちが出した提案は、「埋めること」。でも、「まだ生きてるよ」。それなら、その殻をはがされたカタツムリをもう一度お世話したら殻ができるかも、ということで飼うことに。でも長く生きなかったことは言うまでもない。

 


その10日ほどのち、目にした光景がこれ


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年長組の子どもたちは一学期終業を前に、飼っていたカタツムリをにがしに外に出てきた。夏休みに入るとお世話ができなくなるからだ。おのおの別れを告げたりお礼を言ったりしている。

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この、いきものとむつみあう姿を見て、ある光景を思い出した。いつかもこんなことがあったのではなかったか。

はい、ありました。

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彼らが年少ちゅうりっぷ組のころのある雨の日、カッパを着た園児たちの姿が園庭に見える。担任に伴われて、かわいがっていたカタツムリを園庭にかえしに行く光景だ。

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いろんな事をそっちのけで、カタツムリ に夢中だった子もいたっけ。

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DSCF3448a.JPGバイバーイ

DSCF3452a.JPG バイバーイ。ありがとう。さよなら。
 

 

「いのち」ということがしきりに語られる今は、いのちがもっとも隠される時代であるとも言える。その証拠に「いのちの尊さを教える」「尊いいのちを大切に」というインスタントな感じのする言葉をよく耳にする。いきものをめぐって、幼稚園生活の中でも、丹念な付き合いが積み重なり伝達されながら、醸成されてくるものがある。それが言葉に、根っこや重さをあたえてくるであろう。

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