佐野洋子さんが亡くなりました。
「100万回生きたねこ」はあまりにも有名であり、あまりにもファンの多い作品ですが、その他、絵本もたくさん、エッセイもたくさん書いておられます。
書かれるものはお行儀のいいもの、安心して読んでいられるもの、といったたぐいのものではなく、逆にそこが魅力の作家さんであります。それは著作のタイトルをみればうかがい知れます。
『がんばりません』『友だちは無駄である』(えほん館にあり)『神も仏もありませぬ』『役に立たない日々』『わたしはそうは思わない』『問題があります』等々
たしかに絵本にしても哲学的です。哲学的ということはよく考えてあるということで、よく考えるとそうそう単純素朴ぢゃいられなくなるということです。実際、かの「猫」の話もきわめて哲学的、宗教的です。
死んだら終わりということは今や常識になっていますが、その反動のように、生まれ変わりが「輪廻」としていいことのように言われる節がある昨今です。かの絵本もこのテーマがメインになっていることは、タイトルを見ればわかります。100万回生きたということは100万回死んで生まれ変わったということです。
ただ、この人は、仏教的な素養がある気がしてなりません。仏教書を読んでるかも知れませんが、むしろ仏教の知識や信仰など一切ないというほうが興味深い。ものごとを深く洞察することによって、仏教が明らかにした真理の領域に入り込んだのだということになるからです。
「輪廻」がいいこととしては描かれていない。むしろそれが立ち切られることがこの上なく意味深いことであり、それがこの物語の終わりでもあります。輪廻という飽き飽きするとめどなさを断ち切るのが解脱、つまりブッダになるというのが、仏教のオーソドクスです。
この本といい対をなしていると感じられもし、大変驚嘆した「うまれたきた子ども」という絵本があります。「えほん館」での読み聞かせで、ある保護者ボランティアさんが読まれて知った本ですが、この主人公はまだ生まれていないのです。こういう発想ができるということだけで驚きです。生死のあとに、それを超えて永遠の生命を思い描くということはよくある発想ですし(たとえば「葉っぱのフレディ」)、分かりやすい。なぜなら私たちはすでに生まれてきているからです。ところが、まだ生まれていない私なんて、想像することも困難です。この人が仏教的センスがあると感じるのはまさにここです。
私どもの生まれたり消えたりする現実=<生滅>に対し、仏教はその底に<不生不滅>を見出すのです。「不滅」はわかりやすいと言いましたが、それだけでなく「不生」がくっついてる。「不生」つまり生まれていないということです。私も、私がいる世界もすでに生まれてしまっているのに、その事実を巻き戻してしまうようなところからものごとをとらえるのですから、仏教のもつ情け容赦ないところ、だからこそ徹底的なところ、ですね。