チャボさんの死と子どもの心

おみせやさんごっこ遊び、いもほりと、園はにぎやかな日が続きます。にぎやかさの影のように、チャボさんが亡くなりました。4月に亡くなったチャボさんと同様、老衰であります。教職員は、こどもたちにやすやすと捕まってしまう姿に、彼女の老いを感じていました。

 

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このたびは、クラスごとに担任が話して、チャボさんの亡骸を見たり、触れたりしながら、お別れをしました。心情をふるわせる子、興味本位で「何で動かないの」などと質問してくる子、怖くて触ったり見たりできない子など、受け止め方は様々です。

 

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この絵を見てください。死んで横たわっているチャボさんの絵です。

亡くなった翌日、絵や手紙をちゃぼさんにささげるべく持ってくる子、供えるべくお花をもってくる子が、ありました。いったい子どもたちはどんなふうに感じ、何がうごめいているのでしょうね。子どもたちは先生の話をまっすぐに受け止めて、それぞれの反応をいたします。4月の際、園長がみなに話したことを、ほぼ間違いなく親御さんに伝えてくれた園児もいました。

この絵は、年少組の子がチャボの死にふれて、家に帰るとすぐに描きだしたそうです。すばらしいことだと思います。身近な人の死を経験したことのない子どもさんには、チャボさんの死んで横たわっている姿は衝撃的だったかも知れません。子どものやわらかい心が、死という大人でも背負いきれない大きなものを抱えるのです。お母さんも、驚きのようであり、そのけなげさに切ないようでもありました。

ショックを引きずるようなら、新たな配慮がいりますが、ショックを受けること自体はたいせつな体験です。

絵を描くということによって、無意識のうちでショックを和らげているのかもしれませんし、大きくゆれる心をなだめたのかもしれません。絵や詩など「表現」というのは、内面で形なくうごめいているカオティックなものを心の外に出して形を与えることで、救いになることがあります。

また子どもたちが死にまつわる単純でむつかしい質問を親に投げかけてくることもあるでしょう。そんな時は、簡単にこたえることよりも、一緒になって考えてみられてはいかがでしょうか。だってほんとうは、大人だって答えをもっていないのですから。

小さい頃、死のことを考えて眠れなかったという経験をもつ人は相当いるものです。私はそういう繊細な子どもぢゃなかったのですが、大学で先生をしていたころに知りました。その子たちは、死の疑問に大人が答えてくれないのを知っていつの間にか答えはないものだと疑問を封印してしまうのです。「先生の授業でやっとその問いに答えてくれる話を聞いた」というコメントをしばしばもらいました。

そういう悩みを抱く感受性の強い子は、往々にして気が弱いとか、頭でっかちとか、神経質とか評されてしまいがち。でも、『育児の百科』の松田道雄せんせいは「人間の中にはそういうデリケートな性質の人がいるのだ。世界を美しくしてくれるのは、そういう人だ」と言っています。(この言葉に私は、長男が小さかった頃どれほど励まされたか。)

 

ついでに、死体という形で具体的に立ちはだかる死という謎が、人類が芸術や宗教を生み出した源です。その謎を、大人はわかった気になっているが本当は知らないんだということを暴きだすのが(ソクラテスがしたように)、哲学の源です。

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